小学生の時に海外でプレーをしたのが指導者を志したきっかけ小学6年生の時に岡山市選抜として、姉妹都市であるアメリカのサンノゼで交流試合をする機会を得ました。アメリカだけでなく南米やヨーロッパのチームが集結して大会をしたのですが、そこで経験した海外選手のプレーが強く印象に残っていて、初めて指導というものを意識したような気がします。その後もサッカーを続け、選手として上に行けるイメージも無かったので大学3年生の時に監督に指導者志望である事を伝えました。選手も続けながら指導者もやればいいとアドバイスをもらい、近所の街クラブだった大分のカティオーラFCでアルバイトで指導者を始めたのがキャリアのスタートです。カティオーラFCでは面接に行った当日からスクールを見学し、そのまま「ここ見てあげて」といきなり振られるような感じでチームに合流しました。次の日からは自分で練習メニューを考えていたので、難しさを感じるというよりもとにかく必死でした。ハードな環境だったからこそ、最初の段階から多くの事が得られたと感じていますし、当日にならないと何人の選手を見るのかも決まらない状況でとても鍛えられました。その後、ファジアーノ岡山のトップチームに移るのですが、アシスタントコーチ兼マネージャーという立場での参画でした。自分ががっつり指導するというよりは、チームにとって足りていない部分を補い、選手が一番プレーに集中できる環境を整える事が役割でした。ミーティングや試合会場でどのような振る舞いが求められるか、選手のどういうところを見ているか等を監督の長澤徹さんから学びました。その時曺貴裁さんのお話もよく聞いていて、現在京都サンガFCに長澤さんと曺貴裁さんがいるというのは感慨深いものがあります。小学生も大学生も同じ接し方をよく思い出すエピソードなのですが、高校1年生の時に大きな怪我をして試合に出られなくなってしまった事がありました。松葉杖をついていたし、自分にできる事はないと思っていたのですが、監督から「今まで散々活躍できる場所にいたんだから、今はチームの事をやれ」と言われたのがすごく印象に残っています。日の当たる場所で自分がプレーできていたのは、陰で支えてくれた人がいたからなんだな、と気づくきっかけになった出来事でした。当時は素直に受け取れない部分もありましたが、自分が指導者になるととても大切な事だと感じます。現在小学生も大学生も指導しているので、よく違いを聞かれたりもするんですが、僕はほとんど同じように接しています。どちらにも「サッカーってこういうものだ」というのを伝えていますし、人としてどうあるべきかという部分に関しては年齢は関係ないと思っています。選手たちの反応が一番の活力指導者は皆さん感じる事だと思いますが、練習が想像した通りうまくいく日はほとんどありません。指導した選手たちが目を輝かせていたり、大袈裟に言えば「もう練習終わり?」というリアクションが返ってくると、今日は良い練習ができたんだと感じます。自分が楽しいというよりも、選手がどう感じているのかが答えだと思います。もちろん、過去に指導した選手がJリーガーになったり、そうでなくても立派に成長して連絡をもらった時もとても嬉しいです。応援される人でありたい指導者としての目標は特に掲げていません。現在36歳になりますが、A級ジェネラルライセンスを29歳の時に取って、そこから10年間はどのカテゴリーが自分に一番合っているのか、自分はどういう事を求められているのかを見極めようと思って指導してきました。小学生から大学生まで指導してきて、感じる事は様々ありますが、一番強く思うのは『応援される人でありたい』という事です。現場にいると選手と保護者というごく狭い範囲での関わりになってしまいますが、それ以外の人と繋がる事もこれからの時代大切だと思っているので、数年前からTwitterを始めたり、今回のような取材を積極的に受けたりするようになりました。自分が語る事なんて正直ないという気持ちもありましたが、このようなご縁を大切にして今後も活動していきたいと考えています。