高校進学の決断からプロ入り、そして日本代表・海外挑戦へ──。RCDマジョルカ所属の浅野拓磨選手が、自身の原点である四日市中央工業高校(四中工)時代を振り返る。対談相手は、その高校時代の恩師・樋口士郎さん(浅野選手が四日市中央工業高校 サッカー部在籍時代の監督)。進学に迷い、悩み抜いた末に選んだ道と、その後の選択に宿る“覚悟”の物語が、いま明かされる。四中工進学に迷った中学生時代「3年間だけの犠牲じゃない」%3Ciframe%20width%3D%221920%22%20height%3D%221080%22%20src%3D%22https%3A%2F%2Fwww.youtube.com%2Fembed%2FD_9Iuws-OK8%3Fsi%3DjYktvV7E1xS__IGp%22%20title%3D%22YouTube%20video%20player%22%20frameborder%3D%220%22%20allow%3D%22accelerometer%3B%20autoplay%3B%20clipboard-write%3B%20encrypted-media%3B%20gyroscope%3B%20picture-in-picture%3B%20web-share%22%20referrerpolicy%3D%22strict-origin-when-cross-origin%22%20allowfullscreen%3D%22%22%3E%3C%2Fiframe%3E浅野:正直、四中工には行きたかったけど、行けないって思ってました。サッカーが強い学校に行くには、遠征費とかいろんな費用がかかるし、自分の家じゃ無理だろうなって中学の時から思ってたんです。樋口:それでも来てくれたのは、内田先生(中学生時代の先生)のおかげやな。内田先生は僕の後輩にも当たる人やったから「何としてでも彼は四中工サッカー部に欲しい」って言ったこともある。浅野:そうだったんですね。進学希望を出した時、第一志望には違う学校を書いてたんです。でも内田先生が僕だけじゃなくて、家にも電話をくれて。それから僕にも「本当にそれでいいのか」と話してくれたと後から聞きました。樋口:自分の教え子を信じとるからこそ、そうやって踏み込めるんやな。浅野:職員室に呼ばれて言われたんです。「3年間は家族に迷惑かけるかもしれないけど、その後に返していけばいいじゃないか」って。その言葉で、視点が変わったんですよね。「3年間だけの犠牲」じゃなくて、「その後、自分で返せばいい」っていう覚悟が芽生えました。樋口:その時からもう、心が決まったんやな。浅野:自分一人では到底踏み出せなかった進路でしたけど、周囲の支えと後押しがあったからこそ選べた道だったと思います。樋口:その決断が今につながっとると思うと、感慨深いな。あのときの選択が、すべての始まりやったんやな。浅野:今振り返っても、あの時の決断がなければ、プロにはなれてなかっただろうなって思います。一年生からの試合出場──“自分が中心じゃない”からの変化樋口:タクは1年の春から試合に出てたやろ?今ではありえない話かもやけど、当時は中三から高校の試合にも帯同してもらってたな。浅野:実際、入学前に練習試合に呼んでもらいましたね。家に帰ってすぐ「俺、もう試合出るで!」って親に言ってました(笑)。でも入学してから、「最初はBチームから始めて、2年でA、3年でレギュラー」って自分で勝手に目標設定してました。樋口:自分の中で段階を決めとったんやな。でも、結果的にその予定を全部前倒しで進めたのは大したもんやで。浅野:2年のインターハイ予選でメンバーから外された時、人生で初めて「本気で悔しい」って思ったんです。これがきっかけで、「ここで終わるわけにはいかない」って意識が大きく変わりました。樋口:あの時の悔しさが、成長を加速させたんやな。外された後の取り組みは、見てて明らかに違ったわ。浅野:チームメイトや先生方の期待に応えたいって気持ちも強くなっていきましたね。その頃から、自分がただプレーするだけじゃなく、チームを引っ張っていく存在になりたいという思いが芽生えていったんです。樋口:タクは、逆境に強いんよな。感謝の気持ちと、矢印を自分に向ける力がある。大家族に育てられた強さが、やっぱり根底にあるんやと思う。浅野:あの時の悔しさが、その後の自分の原動力になりましたね。あの経験がなければ、あれほどの覚悟は持てなかったと思います。マリノスではなく広島を選んだ理由樋口:練習参加してたのはサンフレッチェ広島と横浜F・マリノスやったな。どっちに行くか気になってたわ。浅野:最後まで迷いました。でも、広島の練習場って街から離れてて、サッカーしかやることがないんです。逆にそれがいいと思いました。自分が本当に上を目指すなら、サッカーに集中できる環境に行こうって。樋口:自分を律する環境を選んだんやな。普通は“華やか”な方に流されるけど、タクはそうじゃなかった。浅野:プロになるのがゴールじゃなくて、その先の代表とか、海外とかも視野に入れてました。その中で、「どっちが自分を成長させてくれるか」を考えて、広島を選びました。樋口:しっかり考えてたんやな。周りに流されずに自分で決めたのは立派や。当時の広島は二部練、三部練もあったし広島を選んで正解やったと思う。浅野:あの時、目先の環境じゃなく、自分の将来に向けて選んだということが、今の自分を作ってると思います。プロのスタートが広島で本当に良かったです。サンフレッチェ広島での成長とプロ初期の意識樋口:広島に入ってからは、すぐに適応できた?浅野:1年目から「試合に出ても出なくても、やるべきことをやるだけ」って思ってました。樋口:その姿勢は高校時代から変わらんかったな。ブレずに続けてたからこそ、今があるんやろうな。浅野:2年目3年目と試合に出る機会が増えていく中で、経験が積み重なっていって、それが自信にも繋がって。そしたら「もっとやらなきゃ」っていう気持ちが生まれてきたんです。樋口:焦らず、地に足つけて積み上げていくのが大事や。その積み重ねが選手としての厚みになる。浅野:練習でも常に全力でやることを心がけていましたし、結果が出ないときこそ「いま何が足りないのか」を冷静に見つめるようにしていました。樋口:どんな環境でも100%準備するっていうその姿勢が、やっぱりタクの強さなんやろうな。浅野:今でもそれは変わらないです。今できる100%を常に更新し続ける、っていうのが自分の信念です。樋口:その言葉を聞けて、指導者として本当にうれしいよ。浅野:毎日が挑戦で、学びの連続です。その繰り返しが、自分を少しずつでも確実に前へ進めてくれると信じています。▼あわせて読みたい!日本を代表するフットボーラーたちのストーリー海外挑戦と苦悩、そして今──浅野拓磨が恩師 樋口士郎に語る“成長”の物語(後編)鹿島アントラーズから世界へ。町田浩樹が語る、挑戦と進化の軌跡「高校サッカー決勝を見て感じたのは...」酒井高徳が語る、『育成年代の現在と未来』「より効率的にゴールを奪う守備は...」酒井高徳の守備概念を変えた『BoS理論』